映画の撮影の現場に立ち会う! | Peatix tag:peatix.com,2011:1 2015-10-14T03:54:59+09:00 Peatix Economimesis 映画の撮影の現場に立ち会う! tag:peatix.com,2014:event-61886 2014-11-22T14:00:00JST 2014-11-22T14:00:00JST EMRD、ワークショップの特別編です。__________________________________________日頃からご協力頂いている榎本憲男監督の長編最新作『森のカフェ』撮影現場を見学します。参加希望を表明頂いた方には、当日撮影予定部分の「脚本」と「絵コンテ」を事前にお渡しします。どのように「脚本」から「絵コンテ」になっているのか、どのように「脚本」と「絵コンテ」が、映像になっていくのか、この2つを実際の撮影現場に立ち会い、考察してゆきましょう。スケジュールが急ですが、奮ってご参加ください。__________________________________________私たちは日ごろ、さまざまな「作品」に接しています。作者たち(作り手)と私たち(受け手)とは、「作品」を介して、実はとても密な、そして複雑な関係を、いくつもいくつも交わしつづけています。「メディア社会」という言い方もあります。 作り手は自由です。自分たちの作りたいものを、かかる経費や時間とのかねあいのなかで、一生懸命に生み出します。そして受け手もまた自由です。「作品」をどのようにあつかおうと、だれも、なにも、それを止めることはできません。無視してもいいし、命がけの応援をしてもいいし、するりと消費してみせるだけでもよいわけです。 さて、ここで考えてみたいことがあります。メディア作品であふれかえる私たちの人生において、当の「作品」はどこにあるのでしょうか。 なるほど、フィルムやブルーレイディスクやスクリーン、あるいは印刷物、それらの媒体のうえにあらわれる、あの視聴覚情報こそが「作品」なのだ、ということでよいような気もします。 しかし、それは少々単純すぎる考え方ではないでしょうか。もう一歩さきにすすんだとき、こんな見方があらわれてきます――「作品」とは、作り手(オーサー、パブリッシャー、エンジニアなど)のねらいと主張と技術の表現である。 いかがでしょう、この見方は、受け手を文字どおりの単なる「受け手」においてしまうわけですが、私たちはそれで本当に満足できるでしょうか。受け手と作り手が微妙に、あるいは大胆にすれ違うことのほうが、私たちの「作品」経験において、むしろ多いのではないでしょうか。実は、受け手はもっともっと能動的に、「作品」を生み出す役割をはたしているのではないでしょうか。 社会のメディア化がますます深まっていくなか、私たちは、じぶんの人生を、「作品」との関わりにおいて決定づけています。意識的にであれ、無意識的にであれ、個人的にであれ、集団的にであれ、そうなのです。だからこそ、もうすでに日常的にもたれている「作品」経験をとらえなおしてみることは、きっと、この混沌とした時代を上手にきりぬけていくための、たしかな足がかりになるはずです。 私たちのワークショップは、映画撮影の現場にお邪魔します。そこで私たちは、滅多にもつことのないタイプの「作り手と作品と受け手との関係」をもつことになるでしょう。そこでなにかが生まれれば、こんなに嬉しいことはありません。皆さまのご参加をお待ち申し上げます。___________________________________________