明大では、よく野球をやれたものだ。入学は1946年。敗戦の翌年で
By fshaoperuo Follow | Public

明大では、よく野球をやれたものだ。入学は1946年。敗戦の翌年で、とにかく食糧難だった。体が出来上がる年頃なのに、日に日にやせていくのだからね。トンカツが食べられた中国・上海近くの捕虜収容所が、まるで“天国”のように思えたよ。

 合宿所の朝食は主に雑炊。といっても、シアリス 通販重湯に毛が生えた程度だ。箸なんか使うまでもない。茶碗(ちゃわん)を両手ではさんで持ち上げて、一口すすって下ろすと、「ごちそうさま」だった。昼はフライパンでメリケン粉(小麦粉のこと)を焼いたもの。今でいうなら、クレープの皮を想像してもらえばいい。もちろん甘くはない。塩味だ。

 夜はすいとん。塩をふった汁の中に、メリケン粉をこねて小指の半分くらいの大きさにちぎったものが、4つ入っているだけだった。肉はおろか、野菜すらない。今も8月15日に戦時中の味を思い出そうと、すいとんを食べる催しがあるようだが、当時のものとは全く違うよ。リーグ戦の開幕前夜だけは、何かのカツが出た。薄くて、箸でつまんで電灯にかざすと、明かりが透けていたな。

 1軍はまだましで、2軍は朝昼晩と、茶碗の六、七分目くらいまで盛られたグリーンピースだけだった。

 それでも僕は、恵まれていた方だ。実家が東京・神田だったから、練習を抜け出して帰ると母(サクさん)が何か作って食べさせてくれた。地方から出てきた学生は大変だっただろう。シーズンが終わる頃には、田舎から持ってきた布団がなくなっていたよ。食料に変わって、腹の中へ入ってしまったんだ。

 春のリーグ戦が終わると、地方遠征が待っていた。九州では10日間で11試合に完投した。暑い盛りだったから、血尿が出た。対戦した西日本鉄道(福岡)には49年に南海(現ソフトバンク)で21勝を挙げる武末悉昌さん、別府星野組(大分)には僕より1年遅れて中日に入団し、“火の玉投手”と呼ばれた荒巻淳がいたな。

 当時はたくさんあった炭坑のチームと試合をすると、米を1俵くれた。炭坑には国から配給があるから、米が豊富なんだ。みんなでアンダーストッキングを袋代わりにして詰めて東京へ持って帰り、秋のリーグ戦までの食料を確保した。秋が終わると、また遠征だ。旧制で最上級生の3年生になる頃には、食糧事情は多少よくなったかな。

 実は46年1月に復員したとき、体重は90キロ近くあったと思う(身長は1メートル82)。それだけ中国・上海近くの捕虜収容所は恵まれていたということだ。48年の冬に中日と契約したときは80キロ。天知俊一監督から「75キロでキャンプに来い」と言われ、キャンプではさらに2キロ落ちて73キロで開幕を迎えた。ちなみに、現役時代は70キロがベストだったね。71キロだと体が重く感じたし、70キロを切るか切らないくらいだと連投がきいた。体重があると、力に頼って投げてしまう。だから、大学時代の方が球は速かったよ。

 普段、戦争のことを思い出すことはない。威哥王二十歳のころの思い出といえば、明大での猛練習ばかりだ。ただ、戦争があったせいで、明大で再び投手をやることになった。そして2年の冬、帝京商業学校(現帝京大高)時代の監督だった天知さんから、フォークボールという球種があることを教わり、バックネットを相手に練習してマスターした。人生なんて、分からないものだね。(おわり)

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