宮下真由美
By 宮下真由美 Follow | Public

《空気の読める幼少時代》

京都にて
厳格な経営者の父、物静かで芯の強い母のもと、
六人姉弟の四女として産まれました。

当時でも珍しい六人姉弟。
真ん中っこ特有の雑草精神は幼少期の扱いで培われました。


強烈なキャラクターである年子の姉がいたため、
私は物静かで、自己主張はあまりしない子どもでした。

でも静かな反面、頑固ではありました。
あと感覚的に物事を捉えて表現することが得意分野。
絵や字をかくこと、歌を歌うこと、踊りが大好き。
動物も大好きで、『野生の王国』『ムツゴロウ』を観るのも大好きでした。

勉強はやらなくてもできる方でした。
普通に学校へ行き、友達も多く、本当に子どもらしく幼少期を過ごし、そのうえ幸せなことに短大まで行かせてもらい、
ここで平均的な女の子としての人格は形成されました。



《京都京都京都!》

それまでの私の人生は、京都とその仲間ありきでした。

それが結婚と同時にガラリと急変。
東京での主人と二人だけの新しい生活に、バラ色どころか、賑やかで常に仲間や家族がいた生活から一変。
孤独感に苛まれほぼ毎日泣いて過ごし、帰省すればしばらく帰らない。

逆に主人にはさみしい思いをさせたと思います。

でもそうこうしている間に、息子が誕生して周りにママ友もでき、母として開花。
毎日が楽しく、私の東京ライフもキラキラし始めてきた時に、二人目の妊娠が判明。

待望の女の子だということもあり、これから先のことがますます楽しみに!



《人生最大の危機》

ところが…。

妊娠30週の時、エコーで赤ちゃんの異常が発覚。

「十二指腸がつながっていない。そしてダウン症かもしれない…。」

病院でそう告げられた時、
私は後ろからハンマーで頭を殴られたような衝撃で、目の前が真っ暗になりました。

私の人生はその瞬間から180度変わってしまいます。

しかし不思議です。
産科でそう告知されても、産むことに対して一点もくもりはありませんでした。


お腹を

『ポンポン』

と叩けば、

『ポンポン』

と返事がある。


30週の時点で、もはや赤ちゃんに対しての母性は完全に形成されていました。

里帰りし、安静入院を一ヶ月。
もちろんその間は安眠できず、食欲もなく、主人と遠距離になって心の支えも薄いまんま、
増えすぎた羊水で張り裂けそうなお腹と、不安で不安で張り裂けそうになった胸を打ち破るように、
前期破水を経て、娘は帝王切開でこの世に生を受けました。




《ダウン症ではなかった!…けど…》

心底心配したダウン症。
「あー、良かった」
と安心したのもつかの間、

「……」

「お母さん、食道もつながっていません」
「このままでは死んでしまいます。すぐ手術です」

娘は生後数時間で、食道・十二指腸再建の大きな手術を受けることになりました。


無事つながった娘の消化器と命。
しかしこれが私の壮絶な第二の人生の序章にしか過ぎませんでした。




《魂の試される時》

途切れていた内臓が繋がったからと言って、決して『完治』ではありませんでした。

常に喉は『ゼロゼロ』
風邪をひけば『酸素』
お腹には『胃ろう』
油断すると(していなくても)『肺炎』
生活は『病棟』
友達は『看護師』

手術後、約一年半病院での生活を余儀無くされます。
食べるリハビリも相当過酷でした。

しかしながら、病院は病児に手厚く、快適に入院生活ができるように配慮されています。
苦しんでいる子どもに、病気以外のことでこれ以上の苦痛は与えないように…。

そして産まれて育った環境がその子の価値観なので、重病な子ほど不満は出ません。




でも…
付き添いの保護者はそうではありません。

「ほかに兄弟がいる。」
「仕事に行かないといけない。」
「苦しむ子どもをおいて自分も生活をしないといけない。」

目の前の病児との闘病生活と同時に現実の生活も営まないといけない。
そのギャップに親は苦しみます。

「普通の生活はできない、いや、してはいけない」

自分自身はもちろんそうですが、周りの親も同様の悩みで苦しんでいました。

「私は楽しんではいけない…」

私の考え方は歪んで行きました。





《できないではなく、やりたくなかったあの頃》

その頃の私は痩せこけ、まともな生活を営んでいませんでした。

朝起きて、朝食とその日の夕飯の支度を済ませ、上の子を自転車に乗せ大急ぎで保育園へ。
日中は病棟で過ごし、夜は主人とバトンタッチ。その後は息子と二人で過ごします。
もちろん土日はありません。
日曜日は義理の兄に息子を任せてやっぱり病棟へ。
息子はその頃、3歳。
手がかかる、いえ、手をかけないといけない時期に、母と過ごせない、寂しい思いをさせていました。


娘を産んで2年半はほぼ寝ていません。
退院してきて在宅看護になると、
就寝後は胃瘻の栄養注入を真夜中までしていましたので。

また、
ご飯を口から食べたがる娘に隠れ、私と息子は毎日別室で食事をしていました。


もちろん外食も、
お出かけも、
近所のお祭りも、
帰省も、
子どもを連れて動物園も、
大好きなお酒を飲むことも、



全くしませんでした。

『家族で食卓を囲む』
という当たり前のことに、ただただ憧れを抱いているだけでした。
そして心は歪んだままでした。




《目も当てられない状態の私に…》

「ヨガ」
をしに、週に一時間自由に出かける時間を主人が作ってくれました。
苦しむ娘を主人に預け、後ろ髪ひかれながら通い始めます。

ここから、
娘の介護生活がきっかけで歪んだ、私のひとりよがりな生活と体とこころが劇的に、しかも副作用なく変化していきました。





《ジワジワと溶かされた私》

ヨガは、
快適で安定していることがよしとされています。
グラグラせず、自分の足で心地よくグランディングする。

たとえグラグラしている場合でも、
「グラグラしているな〜」
……ただそれだけ。

なぜならそれは、宇宙と自分しかそこにはいないから。
そしてそれをまた別の自分が見ている。

だから、周りの目に囚われない。
自分が思うままであり、誰かに見られ、人が自分をどう感じているか、
などの概念がありません。

「あー、頑張りすぎなくていいんだ」
「私は私でいいんだ」


という考えがムクムクと芽生えていきます。


自分がどうにかしないと、頑張らないと、
周りが成り立たないと思っていた私を、
ヨガはどんどん溶かして行きました。

ゆっくりと、しかし確実に私は自分を取り戻し、
そして、元気を取り戻していきました。


元気になっていく母につられるように、
娘も奇跡的に回復。

私がヨガを始めたことによって、みるみるうちに娘が回復していったのです。

自分が溶かされたことによって、連鎖的に周りにもいい影響を与えたんだと私は確信しています。





《解脱:げだつ 案内人として》

頑張り過ぎていて迷走している現代人。
疑り深く、本当の自分を見失っている人。
どうやって生きていいのかわからなくて迷走している人。

そんな方がどれだけ多いことか…。

私は、このような方に、

楽に、
自由に、
平和に、

自分を見つめ直すことができるように、

その案内人として、

ヨガインストラクターの道を与えられました。



『頑張り過ぎない元気と向上心』

を人生のテーマに、人の心と体に寄り添うような

そんなお手伝いがしたいと思っており、

そして、

世界をも変える使命で、ヨガの道を進みたいと考えております。